たいせつな会員番号「sppc666」
私がIDに使っている「sppc666」は、sppcという撮影会の会員番号でした。その撮影会の正式名称は
sattin professional photo club
略してsppcで、会員番号666が私でした。
sattinとは2000年代初頭にRQとして活動、のちにロックシンガーとなった朝丘紗智さんのことです。RQ時代のsattinは撮影会を主宰していました。
会名に「プロ」を織り込んでいるのは、発足当初の会員たちが、写真を撮ることが本業であるか、なんらかのカタチで業務の一部になっている人たちばかりだったからだそうです。私は後から入会しましたが、やはり写真撮影が業務の一部でした。
そのころ私は雑誌ライターとして駆け出しで、取材はチームを組まず単独で、同行のカメラマンがいないので一回の取材で編集部から渡された36枚撮りネガフィルムを2本ずつ撮ってました。私はテキストを書くのが本業で、写真は記事の隅っこに小さく載るだけでした。雑誌の表紙をめくってすぐグラビア頁がありますが、ああいうのを撮るカメラマンにはポジフィルムを山のように渡していましたから、撮影者としての扱われ方は段違いでした。そんなプロとも言えない私が恐る恐るsppcに入会を申し込み、受け入れられたときは嬉しかったです。
なにせ私が写真趣味を再開して間もない頃で、まわりを見ればフィルムカメラばかりが並ぶなか、すでにデジタルを使い始めていた私は変わり種でした。
先輩会員のみなさんは写真にコダワリが強い人たちです。あるときsattinが、「この景色を背にしたところを撮って欲しい」と、指さした方角が順光でした。そのとき太陽は空高くにあって、sattinの鼻の下にちょび髭みたいな陰が出ます。ストロボを焚くのは、隣が牧場で馬がいるので禁止でした。ならばコレだ、とばかりに、レフ板が5枚も6枚も出るわ出るわ、置きレフでは効果が薄いので一人一枚ずつレフを持ちつつ、なんとか納得がいくくらいsattinに光が当たったとき、居合わせた全員がレフ持ちをしていたので、誰もカメラを手にしていないということがありました。撮影会じゃなくてモデル鑑賞会でしたね。
そんなコダワリの強い人たちでしたが、お互いのコダワリを助けあう場面もありました。そのころ私はストロボを用いる技法の修得に熱心でした。
2001年9月撮影
当時、sppcで撮影した一枚です。私は右手でカメラを持ちつつ、左手で外部ストロボと接続するコードを持っていました。別な人に持ってもらったストロボを画面の右外に向けて発光、それを銀レフでバウンスさせています。ストロボを持ってくれる人とレフを持ってくれる人、あわせて二人の手を借りました。ストロボをワイヤレスで制御する仕組みがなかった頃でしたから。
御覧のとおり、すでに夕陽は地平線の下にあります。残光ではファインダー越しに顔の表情までは見てとれず、sattinがどんな顔をしているのかワカラナイままシャッターを押しています。ちゃんとsattinは寒そうにしてくれていました。自分ひとりでは撮れなかった写真です。
そこまでやって、この程度の写真表現かよ……
と、いまの私は、むかしの自分に対して思います。けれども、これが撮れたときは、良いの撮れたなと思って喜んでいたものです。sattinのモデルとしての表現力は高く、撮る人に「自分は腕が上がったかも」と勘違いさせてしまうほどでした。ほかのモデルを撮ったときは、ちゃんとヘタクソなままでしたから、間違いなく勘違いでしたね。
2001年11月撮影
底抜けに明るいsattinは、クセの強い会員たちを巧く纏めていましたが、どんなことにも「はじまり」と「おわり」があります。sattinにとってRQや水着グラビアは通過点でした。目指すところはシンガーでしたから。
2002年3月撮影
シンガーとして公開のステージに立ったsattinです。
2002年3月撮影
この撮影OKなステージが、ステージ上のsattinを撮った最初で最後の機会でした。
いまの言い方だとsattinは私の「推し」だったわけですが、モデルとして推していたのは否めません。彼女がシンガーになってから、ライブに行ったのも数えるほどでしかありません。われながら薄情だったなぁ、と思います。
いま思うと私がsppcの会員だった期間は2年ほどでした。しかし、その間に交流した先輩会員たちから「目で盗んだ」撮影技法は、いまでも役立っています。私にとって忘れがたい会員番号「sppc666」は、Twitterのアカウント名に使っています。